2024年12月28日土曜日

良寛と浄土真宗

法華讃・法華転

 良寛は禅僧として厳しい修行を続け、煩悩などから解放される解脱・悟りの境地を目指しました。
 その一方で、貧苦にあえぎながら生きている庶民の苦しみを救おうと考え、行動しました。
 小乗仏教は自己の解脱を求めますが、大乗仏教は煩悩に苦しむ衆生の済度(救済)も求めます。この大乗仏教の最も重要な経典が法華経です。良寛は法華経を厚く信奉しました。何も所有しなかった良寛ですが、法華経の経文だけは一生持ち歩いていました。
 良寛は法華経を讃える偈頌(げじゅ)(仏教的漢詩)を作りました。「法華転」と「法華讃」です。その内容は法華経の二十八品の宗意を良寛なりに禅の視点も加えて心読し、讃えたものです。語句には法華経の経文や偈文を数多く引用したり要約しているほか、中国や日本の禅僧の古則からの引用も多くあります。解釈は容易ではなく、法華経と禅の十分な理解が必要となります。良寛の宗教思想を示す詩偈の白眉であり、日本の禅文学の至宝とも評価されています。
 常不軽(じょうふぎょう)菩薩とは、法華経常不軽品に出てくる菩薩の名前です。一切の衆生は皆やがて成仏することを尊んで、誰に対してでも「我、あえて汝等を軽しめず、汝等は皆まさに菩薩の道を行じて、仏になるべきが故に」と言って礼拝しました。
 誰に対してでも礼拝してこの語を発したため、軽蔑されたり、石もて追い払われるなどの迫害も受けたといいます。
 良寛はこの常不軽菩薩を非常に尊敬しました。良寛の法華讃には百三十一首の詩偈が含まれますが、そのうち常不軽菩薩品には次の詩をはじめ六首もあります。

朝に礼拝を行じ 暮にも礼拝
但(た)だ礼拝を行じて 此の身を送る
南無帰命(きみょう) 常不軽
天上天下(てんげ) 唯だ一人(いちにん)

原坦山が認めた良寛の仏教学の学識

 近世禅門における機略の名匠原坦山(たんざん)は、初めての良寛詩集である『良寛道人(どうにん)遺稿』を刊行した蔵雲(ぞううん)和尚の法弟でした。蔵雲和尚から頼まれて『良寛道人遺稿』の校評や略伝の草稿を書いたほどであり、良寛のことはよく知っていました。
 原坦山は、文政二年(一八一九)に生まれ、儒学の昌平校を卒業した後、仏門に入りました。風外本高に参究した後、心性寺、最乗寺に住し、東京帝国大学に明治十二年(一八七九)印度哲学科が創設されたときの初代講師に招聘(しょうへい)されました。その後、学士会員、曹洞宗大学林総監等を歴任し、明治の碩学(せきがく)、真の禅僧といわれた人物です。明治二十五年(一八九二)年示寂、享年七十四歳。
 その原坦山は良寛を「永平高祖(道元禅師)以来の巨匠なり」と称えたといわれています。
 玉木礼吉氏の『良寛全集』に次の逸話があります。
「原坦山、常に禅師を敬慕して措かず、其の法華品に題する「如是高著眼、千百経巻在者裏」の詩を読むに至り、瞿然(くぜん)として曰(い)わく、我朝仏学の蘊奥(うんのう)を究(きわ)めし者、空海以来唯此人あるのみと」

浄土思想への傾倒

 良寛は自力本願の禅の修行を行いましたが、晩年に近づくにしたがって、他力本願の浄土思想に傾倒したかのように、阿弥陀仏に救いを求める浄土信仰的な歌を多く歌っています。
 背景には、越後、特に平野部には浄土真宗の信者が多いこと、晩年に身を寄せていた木村家が熱心な浄土真宗の信仰の篤い信者であったことも影響しているでしょう。

かにかくに ものな思いそ 弥陀仏(みだぶつ)の                                  本の誓いの あるにまかせて                                           本の誓い…衆生をお救いくださると誓われたこと

我ながら うれしくもあるか 御ほとけの                                         います御国(みくに)に 行(ゆ)くと思へば

 愚かなる 身こそなかなか うれしけれ                                 弥陀の誓いに 会ふと思えば                                      なかなか…かえって

待たれにし 身にしありせば いまよりは                                     かにもかくにも 弥陀のまにまに                                        待たれにし…命の終わりを待っている まにまに…心のままにまかせよう

極楽に 我が父母は おはすらむ                                       今日膝もとへ 行くと思へば     

草の庵(いほ)に 寝ても覚めても 申すこと                                       南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 庶民の魂を救済する方法としては、仏の教えを説いて、煩悩を捨てさせ、悟りを得させることが、本来の方法でしょう。しかし、貧しく、日々の過酷な労働に追われている庶民に対して、この方法は現実的ではありません。悟りの境地に至るには、出家して、長く厳しい修行が必要ですが、江戸時代の農民に出家することは許されていなかったのです。
 良寛は、貧しい農民が真に救われるためには、菩提薩た※四摂法(ぼだいさったししょうぼう)では限界があり、ひたすら南無阿弥陀仏と唱え、一心に阿弥陀仏を信じる教えは尊いものと考え、他力本願的な魂の救済という方法に徐々に傾倒していった可能性もあります。阿弥陀仏にすがることで、救われ、来世は極楽に行くことができるという教えの方が、庶民に安心を与え、庶民の魂を救済する方法としては、より現実的と考えるようになったのかもしれません。 
 また、老境になるにつれ、良寛自身が阿弥陀仏の本願に一切の身を任せようと考えるようになったのということも考えられます。※「た」の字は「土へん」の右側が「垂」の字

宗派にこだわらない生き方

 仏教とはもともと一つであり、釈尊の時代には宗派などはありませんでした。そして道元も曹洞宗という宗派の創設者では決してなく、唯一の正しい仏法を受け継いでいるのは自分であるという自負を持っていました。
 しかしながら、江戸時代の仏教界には、多くの宗派が存在していました。禅宗では、曹洞宗のほかに、臨済宗や黄檗宗(おうばくしゅう)があり、禅宗以外でも真言宗、天台宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など多くの宗派があって、互いに他の宗派を批判・攻撃していました。そのうえ、当時の曹洞宗は宗派内での派閥抗争もありました
 良寛にとっては、仏の教えとは宗派を超えた唯一ものであり、特定の宗派に属するという意識は道元同様にありませんでした。仏教界が多くの宗派に分かれていること自体、良寛にとっては、本来のあるべき姿ではないと感じられたことでしょう。
 もともと、良寛の生家である橘屋山本家の菩提寺である円明院(えんみょういん)や五合庵が属した国上寺(こくじょうじ)は真言宗でした。大忍国仙の会下(えか)に入門して修行した円通寺は曹洞宗でした。
 晩年に身を寄せた木村家と、その菩提寺である隆泉寺(りゅうせんじ)は浄土真宗でした。そして、浄土思想に傾倒した歌を良寛は詠んだのです。

2023年11月8日水曜日

「めんたま」

5歳の子どもが作った「めんたま」という詞の紹介がありました。

お父さんやお母さんを見せてくれてありがとう

アンパンマンを見せてくれてありがとう

いろいろなものを見せてくれてありがとう

めんたま いつも見えてくれてありがとう

2023年10月13日金曜日

▶ バウンディン(By ピクサー)

 バウンディン(By Pixer)

人生に変化はつきもの。これは、モンタナ州の山の上に住んでいる子羊と仲間たちのお話です。

深緑色のヨモギがしげる草原の遊び場に、フサフサの毛をまとった一匹の子羊がいました。きれいな純白の毛が自慢で、太陽が出ると嬉しくて、陽気なウエスタンワルツに乗って、ついついステップを踏んで踊り始めます。

「ツータカタッタ、タッタッタ。みんな、踊ろうよ」

子羊につられて、プレーリードッグ、ふくろう、ガラガラヘビ、ガーグルなど、草原の川向こうの仲間たちも、一緒に踊ります。

「カーカタカッタ、ホーホホホっホ、ガーガラガッタ、ジャーブジャブ」

ところが、良いことばかりは続きません。ある日、ほろ馬車に乗ったカウボーイが子羊を捕まえました。荷台に乗せられて、あっという間に、自慢のキラキラ輝く純白の毛が刈られてしまいました。ひと抱えもある羊毛は町の市場に出されました。子羊は、つんつるてんになって、ヨモギの草原に放り出されました。

子羊は大事な純白の毛皮を取り上げられて、踊る気力もなくなり、しょんぼりしていました。子羊の気持ちに呼応するように、突然、雲行きが怪しくなり、ピンクの地肌に冷たい雨が容赦無く打ちつけます。今まで一緒に踊っていた仲間たち、もすみかに戻ってしまいました。

「ピンクのへんてこやろう。イーヒッヒ、へんなかっこうだな」雨音がこんな声に聞こえてきました。

そこへ跳ねながら登場してきたのが、立派な角を持った賢者の中の賢者、アメリカンジャケロープ。

「へい、坊や、何を落ち込んでいるんだい?」

子羊は、今までのことを話しました。

「ピンク、ピンク?ピンクがどうした。ピンク色がそんなに悪いのか、体が何色かってことが、どれだけ大事なことなんだ。ピンク、ムラサキ、アカムラサキだったらどう?それが何だって言うんだ」

「でも、みんな、僕の姿を見て笑うんだよ」

「笑われたって良いじゃないか。人生には、良いときも悪いときもある。落ち込んでいるときは、自分のまわりをよく見るんだ。毛を刈られたって、体は元気なんだろう。足だって、ほら、大丈夫だ。モノの見方さえキチッとしていれば君は完璧だ」

「そんなこと言ったって、どうすれば良いのさ」

「簡単なことさ。さあ、得意な踊りを、もう一度踊るんだ。足を思い切って振り上げて、元気よく下ろす。そう、その調子だ。力いっぱいジャンプすれば空にまで届いちゃうよ。ほら、〜バン、バン、バルディバン。バウンドすれば空は、すぐそばだ、君なら出来る、やってみよう!」

「体を動かしていたら、僕にもできる気がしてきたよ。そうだね、もう一度、やってみるよ」

子羊は元気を取り戻し踊りだしました。

「バン、バン、バルディバン」

すみかに隠れていた川向こうの仲間たちも出てきて一緒に踊りだしました。

そうして、子羊の毛が生えそろう毎年5月になると、カウボーイに毛を刈られて丸裸になるのですが、子羊はそれ以来、落ち込むことはなくなりました。仲間たちも、みんなで一年中楽しく踊りつづけました。

世の中、アップアンドダウン、良いときばかりじゃない。でも、ジャケロープみたいなのがいれば最高さ。

◆ ◆ ◆

体は元気で身の回りのことだってちゃんと出来てる、それだけでも恵まれてるよね。お金がそんなにあるわけじゃないけど、疲れていても美味しいご飯を食べて、ぐっすり眠れば、また、朝になればやる気がで出てくる。いろんなことがあるけど、前を向いて足元を見てゆっくり歩いていけば、人生はじゅうぶんに幸せだ。モノごとって、見方一つで、どうにでも変わるものなんだ。グッドラック。





2023年9月16日土曜日

志功さんの他力

志功さんは、なんであのような絵を描けるのでしょうか?

  自然に体が上がっていくというか

  湧いてくるというか

  あふれてくるというか

  頭を空っぽにして無我夢中で描いていると

  ひとりでにそうなっていきますね

           棟方志功



【棟方志功】
1903年(明治36年)、刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの十五人兄弟(九男六女)の三男(第六子)として生まれる。長島尋常小学校を卒業。家業を手伝うかたわら絵に親しむ。1920年(大正9年)、棟方が十八歳のとき父親が隠居し鍛冶屋を廃業、青森地方裁判所弁護士控所の給仕となる。弁護士の支援で本格的に絵の勉強を始める。

1921年(大正10年)秋に、棟方は親友の松木満史、古藤正雄、鷹山宇一らと「青光社」という洋画のグループを作る。青森市立中学校の美術教師であった小野忠明からゴーギャン、セザンヌ、ロートレック、マティス、ピカソなどの洋画家たちについて教えを受け、とくにゴッホの「ひまわり」に感銘を受け、「わだば、ゴッホになる」と絵画に開眼した。

晩年、仏教画「二菩薩釈迦十大弟子」などを手掛け、第二次世界大戦中、富山県に疎開した折に触れた浄土真宗の影響で「他力」に目覚め、「阿弥陀如来像」「蓮如上人の柵」「御二河白道之柵」(おんにがびゃくどうのさく)「我建超世願」(がごんちょうせがん)「必至無上道」(ひっしむじょうどう)などの仏教を題材とした作品を残した。1975年(昭和50年)東京の自宅で死去。72歳。(参考:ウィキペディア)

2023年8月23日水曜日

陣痛は赤ちゃんも苦しい by 助産婦さん

赤ちゃんがこんなに苦しい思いで、命がけで生まれてくるとは知りませんでした。みんな、すっかり忘れていますが、これを読んでいる誰でも赤ちゃんであったことは確かなことなんです。命は不思議で大切なものですね。クリックして読んでみてください。

 https://www.youtube.com/watch?v=Cb6kw15yEpc

陣痛は赤ちゃんも苦しい by 助産師さん

【ある助産師さんのお話】

赤ちゃんを産むとき、陣痛というものがある。 陣痛は、初産で約24時間2人目以降で約12時間続くものらしい。妊婦さんの中には、この陣痛がとても苦しいので 「産む側は大変、 赤ちゃんは生まれてくる側でいいなあ」と言う方もいるらしい。

しかし、 助産師さんは、これは大きな勘違いだと言う。赤ちゃんの方が妊婦さんの何倍も苦しいのだと。実は、子宮は筋肉であり、これが収縮したり緩んだりするのが、陣痛の正体らしい。陣痛が始まり、子宮が収縮すると、赤ちゃんは首のところを思い切り締め付けられ、へその尾からの酸素が途絶え、息ができなくなるそうだ。

子宮の収縮は約1分間。その間思い切り首を絞められ、息ができない。1分たてばまた子宮はゆるむが、また陣痛が来れば1分、息ができなくなる。しかも陣痛の間隔はだんだん狭くなる。この陣痛に耐えられなければ、 赤ちゃんは死ぬ。まさに命懸けだ。だからこそ、赤ちゃんは慎重なのだという。

実は、 陣痛がおこるためには、陣痛をおこすホルモンが必要らしいのだが、このホルモンを出しているのは お母さんではなく、なんと赤ちゃん自身。

赤ちゃんはとても賢く、自分自身で自分が 今陣痛に耐えられる体かを判断する。そして、一番いいタイミングで自分の生まれてくる日を選ぶ。(そう考えると、 自分の誕生日も、 自分が選んだ日なんだと思えた)また、急に激しい陣痛を起こせば命が危いので、赤ちゃんは最初は陣痛を起こすホルモンを少ししか出さず様子を見てホルモンの量を調整するらしい。

赤ちゃんの中には、予定日を過ぎても なかなか生まれてこない赤ちゃんもいる。 途中で陣痛を止める赤ちゃんもいる。そういう赤ちゃんを「うちの子はノンビリしてる」なんていうお母さんもいるけど、そのとき赤ちゃんは必死なんだという。生まれて来ないのは、赤ちゃんが 「今の体では陣痛に耐えられず死んでしまう」と判断して胎内に留まっているからだそうだ。

赤ちゃんはみんな、自分で判断して自分の意志で生まれてくる。「生まれたくて生まれたんじゃない」なんて人はいない。すべての赤ちゃんは、その日を自ら選んで生まれてくる。

生きるか死ぬかの狭間の中、あの小さな体で必死に生きようと頑張っている。 子どもを授かることもそうだが、出産は母親にとっても赤ちゃんにとっても すべてが奇跡の連続なんだと。

あなたの誕生日も、あなたが命を懸けて、選んだ日なのだ。そう考えると、自分の誕生日が本当に特別な日なのだと改めて実感できるのではないだろうか。

2022年8月29日月曜日

花のたましい

散ったお花のたましいは
み仏さまの花ぞのに
ひとつ残らずうまれるの

だって、お花はやさしくて
おてんとうさまが呼ぶときに
ぱっとひらいて、ほほえんで
蝶々にあまい蜜をやり
人にゃ匂いをみなくれて

風がおいでと呼ぶときに
やはりすなおについてゆき

なきがらさえも、ままごとの
御飯になってくれるから
(『金子みすヾ詩集』より)
20220828 泥牛庵